ホーム:投稿論文:未採用分:「持統紀」と「文武紀」の「新羅王」死去記事:

(二)


『持統紀』と『文武紀』の「新羅王」死去を伝える使者記事について(二)

札幌市 阿部周一

「趣旨」
 前稿に引き続き『文武紀』と『持統紀』の「新羅王」死去記事を考察し、『書紀』の「新羅王」記事が「神文王」ではなく「善徳女王」であること、また『続日本紀』の「新羅王」は「孝昭王」ではなく「真徳女王」であって、『書紀』『続日本紀』において「記事移動」(粉飾)の可能性があることを述べるものです。

Ⅰ.可能性のある「新羅王」の抽出
 すでに見たように『持統紀』の「新羅王」死去記事も『文武紀』の「新羅王」死去記事も不審な点があるわけです。
 『文武紀』記事ではこの「新羅王」は「春」に死去したとされています。
(再掲『持統紀』記事』および『文武紀』記事)
(一)「(持統)七年(六九三年)…二月庚申朔壬戌。新羅遣沙?金江南。韓奈麻金陽元等來赴王喪。」
「同年三月庚寅朔。…乙巳。賜擬遣新羅使直廣肆息長眞人老。勤大貳大伴宿禰子君等。及學問僧弁通。神叡等?綿布。各有差。又賜新羅王賻物。」(『持統紀』)
(二)「大寳三年(七〇三年)」「春正月癸亥朔…辛未。新羅國遣薩韓金福護。級韓金孝元等。來赴國王喪也。…」
「同年閏四月辛酉朔。大赦天下。饗新羅客于難波舘。詔曰。新羅國使薩?金福護表云。寡君不幸。自去秋疾。以今春薨。永辞聖朝。朕思。其蕃君雖居異域。至於覆育。允同愛子。雖壽命有終。人倫大期。而自聞此言。哀感已甚。可差使發遣弔賻。其福護等遥渉蒼波。能遂使旨。朕矜其辛勤。宜賜以布帛。」(『文武紀』)
 ところで、『三国史記』を見てみると、「春」に死去した「新羅王」は以下の三名しかおりません。(ただし七世紀以降)
①「(真平王)五十四年(六三二年)春正月 王薨 諡曰眞平 葬于漢只 唐太宗詔贈左光祿大夫賻物段二百 古記云 貞觀六年壬辰正月卒 而新唐書 資理通鑑皆云 貞觀五年辛卯 羅王眞平卒 豈其誤耶」
②「(善徳女王)十六年(六四七年)春正月 曇・廉宗等謂 女主不能善理因謀叛擧兵不克 八日 王薨 諡曰善德 葬于狼山 唐書云 貞觀二十一年卒 通鑑云 二十二年卒 以本史考之 通鑑誤也」
③「(真徳女王)八年(六五四年)春三月 王薨 諡曰眞德 葬沙梁部 唐高宗聞之爲擧哀於永光門 使太常丞張文收持節吊祭之 贈開府儀同三司賜綵段三百 國人謂始祖赫居世至眞德二十八王 謂之聖骨 自武烈至末王 謂之眞骨 唐令狐澄新羅記曰 其國王族 謂之第一骨 餘貴族第二骨」
 これら三名しか「春」に死去した王はいないというわけですから、『続日本紀』に書かれた、「新羅使」が持参した「表」の内容を信憑するとした場合、上の三名の「新羅王」のいずれかの記事が「混入」ないしは「移動」されたのではないかという疑う余地が生じます。
 これは『持統紀』の記事にもいえることであり、この「新羅王」が「神文王」とは考えにくいとすると、「十一月」(調使到着付近)以降「二月」までの間に死去した「新羅王」を他に検索することとなりますが、『三国史記』にはそのような例についてもやはり上の「春」に死去した三名以外確認できません。他の「新羅王」はいずれも「冬」ないし「春」の時期には死去していないのです。そうであればこの三名のいずれかが(一)と(二)つまり『持統紀』と『文武紀』に書かれた「亡くなった新羅王」である可能性が高いと推量します。

Ⅱ.該当する「新羅王」の比定
 『持統紀』と『文武紀』の「新羅王」記事に「移動」があるとした場合、先の三名の「新羅王」が誰が該当するのかを考えてみると、「善徳女王」の死去に関する事情が注目されます。
 「善徳女王」の死去は上の死去した年次の『三国史記』の記事内容を見ても、当時の「新羅」国内の政治情勢の変化と何らかの関係がありそうであり、明らかに「急死」であったと思われます。
 推測によれば「善徳女王」は「高句麗」と「百済」が連係して(「麗済同盟」)「新羅」に脅威を与えるという可能性を考え、それから逃れるために「唐」に接近していったものと見られます。しかし、「唐」からは「援助」が欲しければ「唐」から「男王」を迎えるようにという「内政干渉」があり、これを受け入れなかったことで「唐」に支援を仰ぐべきという内部勢力との間に緊張関係ができていたと考えられます。このことから「女王」の地位を脅かすような国内勢力に対抗する意味でも、「倭国」への関係を持続させるために「調使」が送られていたものであり、そのような中で「反乱」が起き、その対応の中で(原因不明ではありますが)死去したものと見られます。
 「善徳女王」の死は「春正月」とされていますが、もし『持統紀』の「新羅王」が「善徳女王」であるとすると「喪使」が到着したのが「二月」というわけですから、「倭国」への「喪使」は非常に速やかに派遣されたらしいことが推測されることとなります。注目されるのはこの時ほぼ同時に「唐」へも「喪使」を派遣していたらしいことが『三国史記』から読み取れることです。
 『三国史記』によればこの時「唐」から「使者」が「新羅」を訪れ「前王」に対し「光祿大夫」を追贈すると共に「新王」の「真徳女王」を「新羅国王」と認め、「楽浪郡王」に封じています。
「二月 拜伊閼川爲上大等 大阿守勝爲牛頭州軍主 唐太宗遣使持節 追贈前王爲光祿大夫 仍冊命王爲柱國封樂浪郡王」(『三国史記』)
 この記事でも「唐」からの承認は「二月」つまり亡くなった翌月とされています。このような早さで「国王」の交代を「唐」が認めたのは当然「新羅」から「喪使」が派遣されたことに対する反応と考えられ、そうであれば「倭国」と「唐」へほぼ同時に(二月)に使者が派遣されたこととなって、当時の「新羅王権」として整合する行動と言えるでしょう。
 また、この『持統紀』の「新羅王」が「善徳女王」を指すとした場合、『文武紀』の「新羅王」はその次代の「真徳女王」を意味すると考えざるを得なくなります。
 この「真徳女王」の時代に「新羅」は「唐」への依存と傾斜を深め、「高官」である「金春秋」親子を「唐」へ派遣し、「太宗」と懇意になるほどの関係となります。
「(貞観)二十一年,善德卒,贈光祿大夫,餘官封並如故。因立其妹真德為王,加授柱國,封樂浪郡王。二十二年,真德遣其弟國相、伊贊干金春秋及其子文王來朝。詔授春秋為特進,文王為左武衛將軍。春秋請詣國學觀釋奠及講論,太宗因賜以所制?湯及晉祠碑并新撰晉書。將歸國,令三品以上宴餞之,優禮甚稱。」(『舊唐書/列傳第一百四十九上/東夷/新羅國』)
 この『旧唐書』の記事にあるように「真徳女王」の死に際して「金春秋」は「唐」へは速やかに「喪使」を派遣し、「唐」もそれに応じ「金春秋」を「新新羅王」として速やかに認めているように見えますが、それに比べると「倭国」へは派遣が遅れたと見られ、それは『文武紀』の「国書」の内容として書かれた文章による「今年」「昨年」という表現と、「喪使」の「到着」が新年明けた後となったため「前年」以前のこととなって「表現」が齟齬することとなったことに現われていると思われます。このように「喪使」の到着時期を見ても「唐」へ最優先で報告したのに比べ「倭国」への伝達は遅れたものとなったと見られ、それは「金春秋」政権の「対唐重視」という政策と整合しているように見えます。
 
Ⅲ.記事の「移動年数」について
 『書紀』によれば「善徳女王」の時代には「新羅」との交流は活発であり、頻繁な「遣新羅使」「新羅使」の往還が見られます。しかしそこには「善徳女王」の死去記事がありません。この時代の「新羅」との友好関係を考えると、「国王」の死去を知らせる「喪使」が派遣されないというのは、明らかに不審です。
 『天武紀』の記事中には「孝徳」とおぼしき人物の死に際して「新羅」へ「喪使」(田中法麻呂)を派遣したとみられる内容が書かれています。そのような関係が構築されていたとすると、「新羅」からも「喪使」が送られたと見るのは不自然ではありません。それを考えると、本来『孝徳紀』には「死去」記事及び「喪使」記事が存在していたことが想定できます。これが『持統紀』に移動して書かれてあると考える事ができるのではないでしょうか。その場合本来の年次から「四十六年」の年次差で移動されていると考えられます。
 「真徳女王」についても「善徳女王」の場合と同様、『孝徳紀』には「新羅」からの使者記事そのものは見られるものの、「新羅王」の「死去」を知らせるものはありません。これもやはり当時の「倭国」と「新羅」の関係から考えて不審であり、「記事」が移動されている「徴証」と言えるでしょう。そう考えると、(二)の記事については本来の年次から「四十八年」という年次を隔てて移動されていることが想定されます。つまり、両記事とも実際の年次と五十年近い年数の差をもって書かれていると考えられる訳です。ただし、その年数に「二年」の差があることとなり『書紀』と『続日本紀』が「連続」し、「接して」いることを考えると一見「不審」と見えますが、これについては、この両「新羅王」記事の場合、「神文王」と「孝昭王」の死去した年次に「合わせなければならない」といういわば「差し迫った」事情があったためと理解することが出来るでしょう。
 つまり、「記事移動」という「操作」あるいは「粉飾」を行うとするとその証拠を残さないようにするというのが強く求められるわけであり、「新羅王」に関する記事のような「外国」に関する記事の場合、「海外」にも史料が存在している可能性があるわけですから、それらと齟齬しないように記事を造る必要があると思われます。つまり、『書紀』『続日本紀』編纂の際に、それらの外国史料と比較検討されることを想定して「無理に」合わせている、あるいは「合わせざるを得ない」という事情があったものと見ることが出来ます。そのため移動年数に差があるものと考えられるわけですが、逆に言うとこの「移動年数」がいずれも「五十年」に近いというのは象徴的であり、正木氏などにより『天武紀』『持統紀』の記事で「五十年移動」の可能性があることが指摘されていることと深く関係していると思われます。そのことは前稿の冒頭で述べたように「改新の詔」の真の年次についての議論にも関係してくるものと思われ、「五十年」の移動が過去から未来へのものだったのかその逆なのか再度検討を要すると思われます。
 いずれにしても「倭国王権」から「新日本国王権」への権力移動の状況がより複雑なものであったことを示唆するものと思われます。

「参考資料」
坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本古典文学大系「日本書紀」』」(岩波書店)
青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸校注『新日本古典文学大系「続日本紀」』(岩波書店)
宇治谷孟訳『日本書紀』全現代語訳(講談社学術文庫)
宇治谷孟訳『続日本紀』全現代語訳(講談社学術文庫)
井上秀夫他訳注『東アジア民族史 正史東夷伝』(東洋文庫「平凡社」)
金富軾著 井上秀雄訳注『三国史記』(東洋文庫「平凡社」)
『旧唐書』は台湾中央研究院歴史言語研究所の「漢籍電子文献資料庫」を利用しました。